世界最大級のRCカー専用サーキット施設

茨城県つくば市に存在する、『 谷田部アリーナ 』

アリーナ

茨城に開設した世界一のサーキットから、

『 4人の世界王者が誕生 』

都心部からのアクセスも良い、常磐自動車道・谷田部インターから程なくの距離。

木々の自然に囲まれた閑静なロケーションに、

世界最大級規模のRCカー専用のコース・サーキット施設『谷田部アリーナ』は存在します。

『谷田部アリーナ』は、誕生した1989年以来、毎年のように世界ランカー選手を数名招待しての国際レースを開催。1991年からはJMRCA(日本モデルラジオコントロール協会)主催の全日本選手権も毎年数回の開催を実現し、さらに1995年にオフロード、2000年にはオンロードと、2度の世界選手権レースも開催するなど、RCカーの新たなファン層の獲得や国内におけるジャンルの発展に大きく貢献する活動を続けてきました。

ラジコン

その証明とも言えるのが、2000年、発行部数世界一を誇るアメリカのRCカー専門誌から、RCカーサーキット特集で世界一の称号を与えられたこと。さらには、製品や選手の技術レベル向上にも大きく関与した結果、その後、日本から4名もの世界チャンピオンが誕生しました。

なんと4名とも『谷田部アリーナ』で育った選手たちなのです。

各コースに潜む、それぞれの最大級の楽しみ方

コース

< オンロード・スポーツコース >

2011年、『谷田部アリーナ』は開設23周年を記念して、大幅なリニューアルを果たしました。施設内に完成したセンタービルは「RCカーのテーマパーク」と称されることも多く、コアなファンやユーザー層だけではなく、RCカーに詳しくない者、極端に言えば興味を持っていない人であっても、快適に楽しめる環境の整備と配慮が敷き詰められているのが特長です。その一つひとつを紹介していきましょう。

センタービルの入口を抜け、まず目に飛びこんでくるのが、中速度域のRCカー専用のカーペットコース『オンロード・スポーツコース』。すぐそばには、各々のRCカーを整備するためのピットエリアが存在します。

このピットエリアを越えると扉の向こう側に『ドリフト・グランプリコース』が現れました。初心者から中級者、上級者と、それぞれのレベルに合わせたコースを設置。センタービル内の北棟に位置するのが、全日本選手権やインターナショナルレースも開催される『オンロード・グランプリコース』。余談ですが、このコースは、2011年後半、ゴールデンタイムで放送された某人気テレビ番組にて、ある猛禽類との対決が行なわれました。このことを記憶している方も多いのではないでしょうか。

コース4

< ドリフト・グランプリコース >

コース3

< オンロード・グランプリコース >

コース2

< オフロード・グランプリコース >

センタービルからいったん外に出てすぐの場所には、南棟の『オフロード・グランプリコース』。スタッフの手作業により年に3回コースを変える土のコースです。RCカーが次々とダイナミックにジャンプする様が、ギャラリーの爽快感を誘います。

この『オフロード・グランプリコース』はエクストリーム系の楽しみ方。『オンロード・グランプリコース』は凄まじい程のスピード感を楽しめます。『ドリフト・グランプリコース』では、見知らぬ操縦者同士でも自然と仲良くなれるコミュニケーションツールとしての楽しみ方が潜んでいるようです。

一口でRCカーと言っても、楽しみ方の方向性は、やはりそれぞれ異なるもの。

それら全てを一つの施設で思う存分に堪能できる点はまさしく

『谷田部アリーナ』が「世界最大級のRCカー専用のコース・サーキット施設」と呼ばれる由縁なのかもしれません。

http://www.arakawaoki.co.jp

 

ラジオ体操を作った茨城県人とは、、

遠山

「腕を前から上げて、背伸びの運動からぁ」と聞くと、身体が自然に動きだしませんか?

< 自然に身体が動く「つなぎ」と「流れ」のリズム体操 >

これほどまでに、日本人の身体に刻み込まれたラジオ体操。

実はこのラジオ体操を作ったのは、茨城県出身の遠山喜一郎さんです。

『 遠山喜一郎(とおやま・きいちろう)  』

遠山さんは明治42(1909)年に茨城県に生まれました。優れた身体能力で体操競技に打ち込み、昭和11(1936)年に開催されたベルリンオリンピックに日本代表選手として出場。  後に、日本体操協会副会長を務めるとともに日本にいち早く新体操を紹介し、その普及と発展に尽力した人物としても知られています。

遠山さんが作成依頼を受けたのは、戦後のラジオ体操再改訂版(現在のラジオ体操)。再改定版ですから、それ以前に改訂版が存在しました。しかし改訂版は、動作が複雑な上に難しく、ほとんど国民に浸透しなかったため、昭和21(1946)年の放送開始から1年半で中止になってしまいます。そこで、遠山さんをはじめとする原案作成委員たちの、新しいラジオ体操を作るための取り組みが始まりました。

作成に当たって重点を置いたのは、動きの「つなぎ」とリズムの「流れ」。

「一度動き出したら、音楽に乗って最後までやりきれるものでなくてはならない」というのが遠山さんの体操理論。それまで日本にはない身体の動きは、作成するのが非常に困難だと思われていました。しかし、戦時中に土浦海軍航空隊予科練で体育教師を務めていた遠山さんは、その時すでにリズム体操を訓練に取り入れていたのです。その経験を生かし、ラジオ体操をたった一人で作り上げました。

そして、昭和26(1951)年5月、ついにラジオ体操の放送が開始されました。その出来映えはあまりにも素晴らしく、アメリカ空軍の大佐から「自分たちの基地でも取り入れたい」と申し入れがあったという逸話が残されています。

< ラジオ体操に対する熱意が、終戦直後のGHQをも説得   >

こうして戦後のラジオ体操は、アメリカ軍からも認められる存在となりましたが、そこに至るまではかなり険しい道のりでした。終戦直後、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領統治下に入ります。しかし、すぐにラジオ体操が中止になったわけではありません。敗戦の日の1週間後には、当然のようにラジオ体操は再開。それほど、日本人の生活に密着した存在となっていたのです。

しかし、それを目にしたGHQ内でラジオ放送を管轄していたCIE(民間情報教育局)は、NHK(日本放送協会)の幹部職員を呼びつけ即刻中止を指示します。なにしろNHKラジオから流れてくる号令に合わせて、約300万人ともいわれる人たちが一斉に同じ動作を行うのです。欧米人にはまったく理解できず、ある意味、恐怖を覚える光景だったのかも知れません。

当時、GHQは「軍国主義的及ビ極端ナル国家主義的イデオロギーノ普及ヲ禁止スルコト」という日本に対する戦後教育を行っていました。ともすると、全体主義的に見えるラジオ体操が禁止されるのは当然のことでもありました。そこで、ラジオ体操関係者らが、「ラジオ体操は気分をさわやかにするもので、争いをなくすには効果的だ」と説得します。実際に連合軍の将校たちの前で体操を見せるなどの努力の結果、ラジオ体操は再開されたのです。

遠山さんも戦後のラジオ体操改訂版が中断したときには、全国の教育委員会を廻り、県民体操や市民体操の制定を求めて奔走しています。上からの統制ではなく、国民が自発的に行う民主主義的な活動であるなら、GHQも規制できないと考えたからです。

実際に、遠山さんは茨城県民体操をモデルとして作成。

現在も、県内にある多くの小・中学校で取り入れられています。

< ラジオ体操の素晴らしさは、富士山の美しさと同じ >

日本でラジオ体操が最初に放送されたのは、昭和3(1928)年のこと。アメリカの生命保険会社が考案したラジオ体操を実施し、日本での簡易保険普及のために活用しようと考えたのです。そして、郵政省簡易保険局が制定し、生命保険会社協会とNHKとの共同で広められました。しかし、NHKで簡易保険の広告をすることはできず、集団的精神を培養するためとして事業は進められました。

ラジオ体操の黎明期には、全国に広めるためのさまざまな取り組みが行われました。体操をしながら眺める「体操掛軸」や「体操人形」の作成、また、「国民体操宣伝隊」を組織し、全国各地を廻る取り組みもなども行われています。また、「健康星取表」というカードの無料配布も行われました。体操をした後に星を付け、1銭の貯金をする。ラジオ体操をすると、健康とお金が手に入るというわけです。   さらに、体操の指導者育成も積極的に行います。全国各地でラジオ体操指導者講習会が開かれ、修了者には「指導者章」が授与されました。昭和13(1938)年には約11,000人が指導者として認定され、各地で「ラジオ体操の会」が発足。さらに全国統一組織「ラジオ体操連盟」が結成されました。

これが現在の「全国ラジオ体操連盟」の前身です。

そして現在、ラジオ体操関係最大のイベントとして「1000万人ラジオ体操・みんなの体操祭」が毎年開催されています。このイベントは、1000万人にも及ぶ人々が一斉にラジオ体操を行うという壮大なもの。昭和38(1963)年からスタートし、株式会社かんぽ生命、NHK、NPO法人全国ラジオ体操連盟主催で、毎年、開催地を変えて行われています。草の根的な人気の高さは、ラジオ体操関連書籍が好評であることなどからも伺うことが出来ます。   夏休みの早朝、まだ涼しい風が吹く中を、ラジオ体操の出席カードを首から下げて広場まで走った…。そんな思い出のある方も多いと思います。

遠山喜一郎さんは、

生前、こんな言葉を残しています。

「富士山は裾野が広いから美しい。ラジオ体操も同じだ。国民全体がやって、はじめて素晴らしいものになるんだ」。

みなさんも少しだけ早起きして、ラジオ体操を日課にしてみてはいかがですか?

 

日本初の本格的なサッカースタジアム

サッカー (2)『 Jリーグ参加を実現に導いた日本初のサッカー専用スタジアム 』

鹿島アントラーズのホームスタジアムとして、Jリーグファンなら知らない人はいない茨城県立カシマサッカースタジアム。2002年には日韓共同開催の FIFAワールドカップでも使用され、世界中から集まったサッカーファンの歓声に包まれたことを記憶している方も多いのではないでしょうか。そして、この茨城県立カシマサッカースタジアムは、日本で初めて建設された本格的なサッカー専用スタジアムとして有名です。

< 茨城県立カシマサッカースタジアム >

スタジアム建設構想がスタートしたのは、日本でプロサッカーリーグを創設しようという動きが具体化した1990年。茨城県を拠点に活動していた住友金属蹴球団が、Jリーグへの参加を表明したことがきっかけです。しかし、当時、住友蹴球団がプレーしていたのは日本サッカーリーグの2部。また、ホームスタジアムとしていた多目的グラウンドは約5,000人しか収容できず、実力的にも設備的にもプロリーグへの参加は難しいと見られていました。

 そこで、Jリーグへの参加をアピールするために考えられたのが、日本初のサッカー専用スタジアムだったのです。当時、日本国内のサッカーで使用されていたのは、サッカー以外の競技も行う多目的スタジアム。ピッチの周囲が陸上競技用のトラックに囲まれ、観客席から遠く離れた場所でプレーしなければならないという問題がありました。

また、ラグビーやアメリカンフットボールなどを行うと、どうしても美しい芝を保つことは困難です。つまりサッカー専用スタジアムは、選手にとってもサポーターにとっても夢のスタジアムだったわけです。

この構想を支援するため茨城県では、卜伝の郷運動公園内にJリーグ規格を満たすスタジアムの建設を決定。1993年3月26日に、収容人数約15,000人、全席背もたれ付きの個別席、スタンド全面が屋根付きという本格的なサッカー専用スタジアム、茨城県立カシマサッカースタジアムが完成しました。5月の開幕に間に合わせるため、着工から竣工まで、約1年という工期で建設は進められました。

 < 快適な観戦をサポートする「全席最前列」のスタジアム >
 1998年には、日韓共同開催の2002 FIFAワールドカップ開催に合わせてスタンドの増設等、改修工事を着工。2層式スタンドの採用で最高高さ49.5m、4万人を超える収容人数を誇る巨大スタジアムに生まれ変わり、2001年から供用を開始しました。しかし、ただ大きくなったわけではありません。どの席からもゆったりと観戦することができるよう、スタンドの傾斜を大きめに設計。通常のスタジアムよりこう配がきついため、前列の人を気にすることなく「全席最前列」の感覚で試合観戦が楽しめます。

もう一つ、このスタジアムは、日本で唯一の特徴を持っています。それは2006年4月1日より、鹿島アントラーズが指定管理者としてスタジアムを管理していることです。活動の理念として掲げているのは「THE  DREAM BOX.」。地域の人たちが集える空間を提供することで、コミュニティの形成を支援しようという取り組みです。

そこには、サッカーだけではなく、あらゆるスポーツの夢が広がるスタジアムになりたいという思いが込められています。

その取り組みの一つが、

「カシマウエルネスプラザ」。

地域の健康増進のためプログラムが組まれ、フィットネスマシーンを使った運動やスタジアム3階コンコースでのウォーキングなどが楽しめます。インストラクターの指導のもとで行われるので、初めての人でも安心です。またカシマサッカーミュージアムも、ホームタウンの人たちに憩いの場を提供しています。展示内容は、2002  FIFAワールドカップや鹿島アントラーズのメモリアルグッズなど。すべてのサッカーファンが楽しめる内容になっています。

さらに、鹿島アントラーズでは2006年より、観戦者参加型のエコプログラムを実施。2009年には「食用油でチームトラックを動かそう!」というプロジェクトで「クールビズ・アース2009」を受賞しました。

 また茨城県では、2010年のシーズン開幕に合わせて、1階席の座席をリサイクル可能な素材を使った座席への更新を行いました。一部の座席についてはサイドテーブルや跳ね上げ式イスを採用、1階のメイン・バックスタンド全席にカップホルダーを付けるなど、快適性も向上しています。さらに、ピッチの周囲には廃タイヤなどのリサイクルゴムチップを埋め込むなど、環境に優しいスタジアムづくりを進めています。

< 日本サッカー界初を数多く樹立するJリーグ王者・鹿島アントラーズ >

そして、茨城県立カシマサッカースタジアムをホームとする鹿島アントラーズも、数多くのJリーグ初を持つクラブチームです。その代表的なものは、2000年に達成した3冠。天皇杯、リーグ戦、ナビスコカップと1シーズンで3回優勝を経験したしたチームは他にありません。そして、この国内3大タイトルを、合わせて10個以上獲得しているのも鹿島アントラーズだけです。また2009年には、史上初の3連覇を達成。「一つひとつのゲームを大切に戦い、すべてのタイトルを獲りにいく」と語ってくれた岩政大樹選手の言葉に、勝利に賭ける選手たちの思いが感じられます。

< 鹿島アントラーズ クラブハウス >

しかしこの強さを支えているのは、ホームタウンの人たちだとクラブ関係者は言います。そこで、2007年から毎年行っているのが、ホームタウンでの小学校訪問プロジェクト。選手2、3人が1組となり、地域すべての小学校を訪問してサッカーの楽しさを伝えています。鹿島アントラーズの選手と一緒にサッカーボールを蹴った思い出は、きっと一生の宝物になることでしょう。選手たちも地域の人たちの暖かさを感じ、励まされているということです。

こうして上昇志向を持ち続ける鹿島アントラーズは、常に新しいチャレンジを行っています。その一つが日本サッカー界初となるテレビ番組の制作です。2009年の夏からはCS放送のスカパー!で、自らが制作するオフィシャル番組「アントラーズ・リポート」を放送開始。制作はすべてクラブ職員が行っています。また2010年からは、スカパー!で放送されるホームゲーム中継も制作。ロッカールームの近くまでカメラを入れ、後半に向けて気合いを入れる選手たちの声をリポートするなど関係者ならではの演出でゲームを盛り上げています。

Jリーグの常勝軍団である鹿島アントラーズは、これからも、この茨城県立カシマサッカースタジアムでたくさんの日本サッカー界初の記録を打ち立てて行くことでしょう。

皆さんも地域の誇りとして、是非スタジアムに足を運び熱い声援を送ってください。

http://www.so-net.ne.jp/antlers/