茨城が生んだ 『 エレキの神様 』 寺内タケシ。

寺内タケシ< 茨城から始まる伝説の数々、寺内タケシとエレキギター >

寺内タケシさんは昭和14年(1939年)、茨城県土浦市で生まれました。5歳にして母の三味線に合わせてギターを弾き、子供ながら電話のコイルをクラシックギターに取り付けてエレキギターを製作。これがエレキ人生の始まりとなったわけです。

『 寺内タケシ 』

プロ活動を開始したのは関東学院大在学中。ウエスタンバンドを結成し、横浜のクラブや横須賀の米軍キャンプで演奏活動を行っていたそうです。そして昭和38年(1963年)、日本初のエレキバンド『寺内タケシとブルージーンズ』を結成。エレキブームの仕掛人となり、加山雄三主演の大ヒット映画「エレキの若大将」などにも出演しています。

寺内さんが生み出したヒット曲は、日本レコード大賞編曲賞を受賞した「レッツゴー運命」や「津軽じょんがら節」などたくさんあります。なかでも日本の伝統・文化を感じさせる楽曲には定評があり、次第に世界中のエレキファンから『エレキの神様』として尊敬を集めるようになりました。現在も旺盛な音楽活動で世界中のギタリストたちに大きな影響を与える寺内さんは、エレキギターの第一人者です。

≪ 『ハイスクールコンサート』を母校の茨城県立土浦三高で実現 ≫

現在は市民権を得ているエレキギターですが、音楽界に登場したころは多くの大人たちが「エレキは不良の温床」と決めつけていました。当時はコンサートに出かけた高校生が、停学処分になることもあったといいます。

そして「全国の高校に『エレキギター禁止』の動き」という新聞記事に衝撃を受けた寺内さんは、ある行動にでます。

それが『ハイスクールコンサート』です。それから寺内さんは3年かけて約100の高校を訪れ、コンサートの開催を打診しました。しかし、高校側の反応が鈍く、関心を示したのはほんの少し。やっとステージが実現したのは昭和49年(1974年)のこと。母校の茨城県立土浦三高でステージに立ったのはこの頃です。

その後、寺内さんのギターテクニックと、自分の人生をモデルとした熱い語りが話題となり、約30年間にわたり全国の高校でコンサートを開催。

1000校を超えた平成12年(2000年)には、時の文部大臣・中曽根弘文氏より感謝状が授与。また1200校を超えた平成16年(2004年)には、「青少年教育に寄与した」として、文化庁長官から表彰されています。

 < 新たな伝説、プロミュージシャン初の『国会ライブ』を開催! >

こうして、国会議員からも注目されるようになった『ハイスクールコンサート』ですが、議員たちが実際にコンサートを聴くチャンスはありませんでした。そこで寺内さんは「是非、関係者にもコンサートを聴いてもらいたい」と考え、中曽根弘文・元文部大臣に国会報告会の企画を持ち込みました。

それに答えて結成されたのが「寺内タケシとブルージーンズハイスクールコンサート国会報告会実行委員会」。

そして衆参両院議長など党派を超えた国会議員たちの協力により、平成17年(2005年)6月29日、ついに『ハイスクールコンサート国会報告会』が開催されました。

≪ なんと、コンサートの会場となったのは衆議院講堂。≫

本来はコンサートを開くことなどできませんが、報告会ということで特別に許可。観客席には国会議員をはじめ、議院秘書、国会職員などが多く詰めかけ、450人の定員を超える約600人が集まるという盛況ぶりでした。

寺内さんは「皆さん、この会場は見た目古色蒼然だけど、今日は高校生に戻って楽しんでくださいね。永田町高校の皆さん盛り上がろう!」と呼びかけ、

アンコールでは扇千景共同実行委員長が感謝状を進呈。

演奏の終わりには観客全員が立ち上がってスタンディングオベーションとなり、熱狂のうちに閉幕したということです。

寺内タケシとブルージーンズ

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『 あんパン 』 を初めて作った茨城県民

あんぱん

木村安兵衛 (きむら・やすべい) 常陸国河内郡田宮町 (現・牛久市)

< 武士からの転職   >

木村安兵衛は、常陸国河内郡田宮村(牛久市)に生まれた武士でしたが明治維新によって失業に追い込まれてしまいます。

そこで、安兵衛は、木村家本家の重義を頼って江戸に出ます。

当時、重義は東京府職業授産所長を勤めており、そこの事務職をすることとなります。授産所とは、明治維新により職を失った者に手に職を付けさせ生活の糧となるよう職業訓練をするところです。

そこで安兵衛は、“パン”というものを知りました。重義のすすめもあって、安兵衛はパンをつくることになったのです。

実際にパン屋としての仕事をしたのは、当時18歳の次男英三郎でした。明治維新によって起きた時代の変化を肌で感じ取った英三郎は新しいものをもとめて、横浜の外人居留地に出かけ外国人のつくったパンを見たり食べたりしていたので、パンについての一応の知識もあったのです。

< 木村屋の看板 >

パン屋開業    明治2(1869)年、安兵衛は妻ぶんのわずかな蓄えを元手に芝日陰町(現在の新橋駅あたり)にパン屋「文英堂」を開くこととなりました。店の名前は妻の名前である「ぶん」と文明の「文」と息子英三郎の「英」の字からとったものです。その後、店名は「木村屋」と改められました。

< 苦労時代  >

英三郎は日夜パン作りに励みました。しかし、英三郎の思うようなパンはいっこうにできません。ようやく作ったパンも思うようには売れない。家族の新たな船出は、順風とは言い難い状況でした。しかも、数ヶ月後に起こった火事によって店を焼失してしまいます。

< あんパン発明   >

しかし、これを転機に、一家は再起を図るため銀座尾張町に進出します。 その際、横浜で働いていた武島勝蔵という職人を新たに雇い入れました。勝蔵は英三郎とも年が近く、腕も良かったのです。 明治5年、新たな店を銀座に構えると文明開化の波とともに上昇機運に乗ることとなるのです。

パン作りの技術も上達し、柔らかいパンを作れるようになりましたが、当時の日本ではパンを食べる習慣がありませんでした。

それならば、「日本人が好きになるようなパンを作ろう.」と考え、安兵衛はいろいろな工夫を試みました。

そんなある日、パンの中にあんを入れてみてはどうかと思いつきます。それからは苦心の連続でした。ようやく出来上がったあん入りのパンはこれまでに作ったパンとは違った味がしました。

安兵衛はそのあん入りのパンを『あんパン』と名付け売り出したのです。

『あんパン』は売れに売れました。

< あんパン献上 >

明治8年、「木村屋」の『あんパン』は、安平衛の知り合いで、明治天皇の侍従であった山岡鉄舟の心をつかみました。鉄舟が安平衛に「陛下に召し上がっていただこう」と申し出たのです。その日から木村安兵衛・英三郎親子は陛下のために、特別な『あんパン』を召し上がっていただくため、試行錯誤を重ねたのです。

明治8年4月4日、ついにその日がやってきました。

明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷を訪問します。その際にお茶菓子として『あんパン』が献上される段取りになっていました。はじめて『あんパン』を口にした明治天皇はお気に召し、ことのほか皇后陛下(照憲皇太后)のお口にあった。そして「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉があったのだ。このあんパンは、パンの中心に桜の塩漬けが乗ったあんパンでした。

このパンは今も、

『 桜あんパン 』 として売られ、、

木村屋で一番の人気になっているとのことです。