『 あんパン 』 を初めて作った茨城県民

あんぱん

木村安兵衛 (きむら・やすべい) 常陸国河内郡田宮町 (現・牛久市)

< 武士からの転職   >

木村安兵衛は、常陸国河内郡田宮村(牛久市)に生まれた武士でしたが明治維新によって失業に追い込まれてしまいます。

そこで、安兵衛は、木村家本家の重義を頼って江戸に出ます。

当時、重義は東京府職業授産所長を勤めており、そこの事務職をすることとなります。授産所とは、明治維新により職を失った者に手に職を付けさせ生活の糧となるよう職業訓練をするところです。

そこで安兵衛は、“パン”というものを知りました。重義のすすめもあって、安兵衛はパンをつくることになったのです。

実際にパン屋としての仕事をしたのは、当時18歳の次男英三郎でした。明治維新によって起きた時代の変化を肌で感じ取った英三郎は新しいものをもとめて、横浜の外人居留地に出かけ外国人のつくったパンを見たり食べたりしていたので、パンについての一応の知識もあったのです。

< 木村屋の看板 >

パン屋開業    明治2(1869)年、安兵衛は妻ぶんのわずかな蓄えを元手に芝日陰町(現在の新橋駅あたり)にパン屋「文英堂」を開くこととなりました。店の名前は妻の名前である「ぶん」と文明の「文」と息子英三郎の「英」の字からとったものです。その後、店名は「木村屋」と改められました。

< 苦労時代  >

英三郎は日夜パン作りに励みました。しかし、英三郎の思うようなパンはいっこうにできません。ようやく作ったパンも思うようには売れない。家族の新たな船出は、順風とは言い難い状況でした。しかも、数ヶ月後に起こった火事によって店を焼失してしまいます。

< あんパン発明   >

しかし、これを転機に、一家は再起を図るため銀座尾張町に進出します。 その際、横浜で働いていた武島勝蔵という職人を新たに雇い入れました。勝蔵は英三郎とも年が近く、腕も良かったのです。 明治5年、新たな店を銀座に構えると文明開化の波とともに上昇機運に乗ることとなるのです。

パン作りの技術も上達し、柔らかいパンを作れるようになりましたが、当時の日本ではパンを食べる習慣がありませんでした。

それならば、「日本人が好きになるようなパンを作ろう.」と考え、安兵衛はいろいろな工夫を試みました。

そんなある日、パンの中にあんを入れてみてはどうかと思いつきます。それからは苦心の連続でした。ようやく出来上がったあん入りのパンはこれまでに作ったパンとは違った味がしました。

安兵衛はそのあん入りのパンを『あんパン』と名付け売り出したのです。

『あんパン』は売れに売れました。

< あんパン献上 >

明治8年、「木村屋」の『あんパン』は、安平衛の知り合いで、明治天皇の侍従であった山岡鉄舟の心をつかみました。鉄舟が安平衛に「陛下に召し上がっていただこう」と申し出たのです。その日から木村安兵衛・英三郎親子は陛下のために、特別な『あんパン』を召し上がっていただくため、試行錯誤を重ねたのです。

明治8年4月4日、ついにその日がやってきました。

明治天皇が東京向島の水戸藩下屋敷を訪問します。その際にお茶菓子として『あんパン』が献上される段取りになっていました。はじめて『あんパン』を口にした明治天皇はお気に召し、ことのほか皇后陛下(照憲皇太后)のお口にあった。そして「引き続き納めるように」という両陛下のお言葉があったのだ。このあんパンは、パンの中心に桜の塩漬けが乗ったあんパンでした。

このパンは今も、

『 桜あんパン 』 として売られ、、

木村屋で一番の人気になっているとのことです。

 

茨城から世界へ!日本で最初のホームページを発信!!

サーバー

日本人として初めてWWWと出会った森田洋平博士

インターネットが日常的な存在になっていることは、

このサイトにアクセスしている皆さんならご存知ですよね。

でも、日本で初めてのホームページが、

茨城県から発信されたことはあまり知られていないようです。

日本初のウェブサイトを立ち上げたのは、

茨城県つくば市にある『文部省高エネルギー物理学研究所(KEK)』

(現在は『大学共同利用機関法人・高エネルギー加速器研究機構』)。

1992年9月30日に、当時、計算科学センターに所属していた森田洋平博士の手で、世界中にホームページが発信されました。 このとき登録されていたワールドワイドウェブ(WWW)サーバーは、まだ世界中に10数台ぐらいしかなかったということです。

森田博士がWWWという言葉を耳にしたのは、1991年にアメリカ・ダラスで開かれた高エネルギー実験のソフトウェア担当者の会議でのこと。スイス・ジュネーブのCERN研究所の研究員が、WWWを開発した話をしていたのです。当時のインターネットで流通していた情報はテキスト主体で、ちょっとした情報を手に入れるにも複雑なコマンドを覚える必要がありました。しかしWWWはこのような手続きを、

「リンクをたどれば情報が手に入る」という簡単かつ直感的な概念に置き換えたのです。

森田博士は「便利な道具ができたなぁ」と思い、KEKに帰ってから同僚に報告しました。しかし、そのときはまだ、KEKにWWWを導入するすることは思いついていなかったそうです。

<茨城から世界に向けてホームページを発信 >

日本で最初のwwwサーバ    WWWの概念は1989年にTim Berners-Lee博士によって提唱され、スイス・ジュネーブのCERN研究所でプログラムの開発が始まりました。森田博士は1992年に、フランスで開かれた国際会議の後に立ち寄ったCERN研究所でTim Berners-Lee博士と出会います。そして「情報はネットワーク上でみんなと共有して、はじめて価値が生まれる。WWWはハイパーテキストのリンクで世界中の情報をお互いに結び付けることを可能にする。KEKもぜひWWWサーバを立ち上げてほしい」と依頼されました。    Tim Berners-Lee博士の話に感銘した森田博士は、さっそくCERNの端末室に出向き、ネットワーク経由でKEKにログインして初めてのHTMLファイルを作りサーバー上に置きました。それからTim Berners-Lee博士にそのアドレスを電子メールで送り、CERNのリンク集のページにKEKを加えてもらいます。

これが日本で最初にWWWの網の目にリンクされたサイトとなったのです。

その後“Mosaic”や“Netscape”などのブラウザが登場し、WWWは爆発的に拡大していきます。かつて、パピルス(紙)の発明が人類の歴史を変えたように、WWWは情報の流れを変えてしまったのです。その情報革命を、図らずも世界中に知らしめる惨事が日本で起こりました。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災です。発生した当初、現地の模様はテレビカメラが上空から撮影する映像しかありませんでした。しかし、神戸市の職員が被災の状況を現地で撮影し、WWW上にアップしたのです。これにより災害の悲惨な状況が、リアルタイムで全世界に伝わったのです。

1997年にベルリンで開かれた国際会議に出席した森田博士は、
冷戦が終わって間もないドイツの市街地で、アメリカの宅配会社のトラックを目撃します。何気なく荷台に視線を送ると、そこにはURLが書かれていました。7年前まで情報から隔絶されていた東ベルリンで、世界中から情報とアクセスできるWWWのアドレスを目にするなんて…。森田博士がサイトを立ち上げてから5年。歴史が変るときの劇的なスピードに、森田博士はめまいにも似た感動を覚えたと言います。

≪知を蓄積したネットの海が人類の未来を創る≫

WWWは、必要な情報を必要とする全世界の人たちに、瞬時に伝える力を持っています。また、個人がテレビ局のように情報を発信することも可能にしました。WWWは、情報にかけられたさまざまな障壁を下げることに成功したのです。

しかし、人間にはポジティブな側面があると同時に、ネガティブな側面も存在します。

有害な情報やウソの情報が流出する危険も考えなければなりません。

そこで、情報を受け取る側に必要になってくるのが情報リテラシーです。

森田博士は、

「コンピュータネットワークの向う側には、人間が存在しています。だから、情報を見たときの雰囲気や文脈で、相手の個性を見抜く必要がある。そういった能力を高めるには、まず、生身の人間同士でコミュニケートする機会を増やすことではないでしょうか」と、情報リテラシーの向上についてアドバイスしてくださいました。

現在、人類の知識は電子化されてネットの海の中に蓄えられています。その海から、人類は何を享受するのか。また、どういう地球の未来を築いていけるのか…。

いずれにしても、一つだけ確かなことは、

世界はインターネットがなかった時代には後戻りできないという事実です。

私たちもネットワーク社会の一員として、

また、日本でのホームページ発祥の地の住民として、

みんなでインターネットの正しい使い方を考えていきましょうね。